インタビュー

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インタビュー 砂連尾 理 〈じゃれお・おさむ〉
聞き手 豊平 豪(大阪大学大学院/文化人類学専攻)

豊平:いきなりですけど、まず舞鶴の印象からお伺いしましょうか。以前、舞鶴をごらんになられたときに、「子宮のような地形をしている」っておっしゃっていました(参照:『浮遊博物館関連企画・アーティスト鼎談』)。それは僕のなかでも舞鶴を考えるときの軸になっています。その辺の印象は、3ヶ月ほど経って変化したりしています?

砂連尾:それとつながるかどうかわかりませんが、毎週大阪から電車で通っているときに、時間の流れがゆっくり感じることとか、体の疲れがとれていくのはなぜなんだろうなあ、と考えたりはします。それまでのスケジュールで疲れが溜まっていた時もあるのだけど、舞鶴にくると、何か元気になる。それは、一緒にダンスをしている高齢者の方や子供に元気をもらっていることかもしれないけど、なんとなく舞鶴のもつ「子宮性」みたいなものと関連があるのかもしれないですね。でも現在進行形なんで、今はまだ舞鶴の印象について言葉にするのは難しいかな。もう少し時間がいると思います。

豊平:それでは、今回ワークショップをすすめている特別養護老人ホーム「グレイスヴィルまいづる」の印象はどうですか?

砂連尾:施設もそうですが、特に施設長が「この場をより良いものにしたい」っていう強い気持ちをもっていますね。看護、介護をアートとしてみるとか、いろいろと試行錯誤しながら、新しいことを試みようとしています。だから、僕らのプロジェクトを受け入れてくれている。小学校とかワークショップにいっても、校長先生とか本当にほったらかしで、関心がなかったりする場合もけっこうあるんです。アーティストが来てくれるのはいいことだよね、っていうところで止まってしまう施設が多いなか、グレイスヴィルが関心をもってくれているのが本当にありがたいです。


豊平:一般的に、ダンスというと、バレエとかモダンダンス、社交ダンス、ブレイクダンスなどをまず頭に浮かべる方が多いと思います。でも、砂連尾さんはそうじゃないダンス、いわゆる「ジャンルに属さない同時代の」という意味のコンテンポラリーダンスをされている。ごく普通に素人である僕なんかが考えるダンスとはかなり違う。砂連尾さんは、最初どうやってそこにアクセスしていったんですか?

砂連尾:大学入ったときにダンスを始めました。あのころはダンスブームだったんです(笑)。『フラッシュ・ダンス』とか『フット・ルース』とかね。あの辺。後、マイケル・ジャクソンの『スリラー』か。だから、ダンスが情報として身近にあったのは確かで、男性が踊っていることにもようやく抵抗感がなくなりつつあったのかな。とはいえ、あのころの僕にとって、ダンスっていうのはまったく未知な世界だったんです。だから、未知な世界への興味もあったし、身体そのもので何かを表現するっていうこれまで抵抗があったことへの挑戦みたいなところもありました。

豊平:ダンスは、大学のダンス部に入部したんですか?

砂連尾:いや。街中のダンス教室だったんです。大学に入学したときに、喫茶店のチラシをみて電話しました。当時通っていた同志社大学にはもちろんダンス部はなかったしね。社交ダンス部はあったかもしれないけど、でも男性が入るようなモダンダンス部みたいなのはなかったと思います。

豊平:その後、どうやってコンテンポラリーダンスへ移っていくんですか?

砂連尾:4年で教室はやめました。やめて、心に少し余裕ができたとき、やっぱりもう一度しっかりとダンスのトレーニング、身体のトレーニングをしてみようと思ったんです。そうなったときに、なぜか当時<きっちりダンスをやる=バレエをやる>って発想したちゃったんですね。それで、24才のときに初めてバレエをやってみました。今思うと、モダンダンスやジャズダンスというところから、一歩踏み込んで、もう少しきつい身体のトレーニングをやらなければならないって思ったんです。

豊平:なるほど。

砂連尾:ともかく、それでバレエをやって、そのうちバレエだけではと思って、1990年にアメリカにいったんです。学生時代にやっていたダンスとか、バレエともまったく違うような表現に出会うんです。自分が今までもっていた概念にはないところに出会っていく知的喜びを感じたときに、初めて既成の枠組みに収まらないことをやってみたいと思いました。90年代の初めに活動を始めたときは、まだコンテンポラリーダンスなんて言葉はなかったんです。「既成の価値観に捉われないダンス」っていう言い方をしてました。モダンやジャズや物語的表現とかそういう要素が含まれているような表現をしたいと思いましたね。でもね、「あなたにとってコンテンポラリーダンスとはなんですか?」って訊かれても、コンテンポラリーダンスをやってるって感覚はないんです。既存のやり方に捉われてないってことそのものが、あえていうと、今はコンテンポラリーダンスっていう言葉になるのかもしれません。

豊平:91年からは、クラシックバレエをされていた寺田みさこさんとデュオを組んでいくわけですが、そのダンスの方向性はどんなやり方で追及していったんですか?

砂連尾:91年からはじまっているんですけど、作品を発表したのは、93年なんです。その間2年間は彼女との対話に費やしました。まずは、僕が今面白いって思っているダンスのビデオを一緒に観ましょうってところからはじめて、僕は今こんな本を読んでいます、こんな音楽を聴いていますって具合です。お互いの興味と関心を共に伝え合う。今回、グレイスヴィルの高齢者たちと対話するのと一緒ですね。


豊平:活動休止されたのが、2007年。ついこの間ですね。いろんな方に聞かれているとは思うんですが、活動休止や、ベルリンでの研修といったことを決めた転機ってなんだったんですか?

砂連尾:単純にいうと、何をどうやっていっていったらいいのかが、僕の中で見えなくなっていたってことだと思います。おそらく2005年くらいからかな。結局、2006年の作品が今のところ最後の作品になっています。そうやって、僕が次の展開を悩んでいたときに、障害者とのダンスに出会ったんです。2007年ですね。この年、障害者の人と一緒にやりませんか、って声をかけてもらったんです。

豊平:これは具体的にはどんな出会いがあったんですか?

砂連尾:ひとつには仙台のカンパニー「みやぎダンス」が声をかけてくれたっていうのがあります。それと、大阪のDANCEBOXというNPO法人が、明治安田生命が主催しているエイブルアート・オンステージに選ばれたのですが、そのときのダンス作品にナビゲーターとして参加しませんか、って誘ってくれたんですね。

豊平:砂連尾さんのパフォーマンスは、障害者とのダンスから入って、だんだんと高齢者や地域の人々とのダンスといった形で広がりをみせています。劇場にこだわらないパフォーマンスのやり方って、このころからなんですか?

砂連尾:昔から作品をみてくださっている人から、「どうしてこんなふうに変わってきたんですか?」っていわれるんですけど、僕のなかでは、大きく変わったとは思っていないんです。バレエの現場で、たまたま寺田さんに出会ったとか、障害者との関わりもたまたま向こうからオファーがあったわけです。そこに魅力的な人がいた。その人の魅力をどう考えるのか、どうアクセスすればいいのかと考えた場合に、寺田さんにはステージが最も適していると思ったんだけど、障害者の方々との場合は、たまたまそうじゃなかったんです。一番初めやったときは、ある施設を観客が移動しながら観る形にしたんだけど、それはこの細い廊下がこの子には合うなあ、とか、このトイレのなかで踊ってもらいたいとか、そんな感じだったんです。別に劇場で発表するというスタイルにこだわっているわけではなくて、その人とやるっていうときに考えるのが重要であって、その結果が今は劇場ではないってことですね。

豊平:その後、2008年から約一年間のベルリン研修を体験されるわけですよね。

砂連尾:ベルリンに行ったのはよかったと思っています。自らを振り返りもう一度語りなおす機会がもてました。そこでは自分が話している言語や文脈が通じない環境だったわけです。ドイツ人には日本語は通じないし、彼らの英語も完璧なわけじゃない、そして僕もドイツ語は話せない。そんな中、どうやって自分の意志を相手に伝えるのか、ということは常に問われました。ベルリンでは基本的に英語でコミュニケーションをとっていたのですが、日本語の言い回しとは全然違うので、話すときは常に頭の中で翻訳作業をしていたように思います。でもそれが、相手としゃべるとき、表現するときに必要なことだと感じたんです。つまり、相手の側に立って、いかに自分の言いたいことを伝えるのかっていうことですね。それを身体的なレベルで経験できたことは大きかったです。言葉だけではなくて、身体的にも、相手の障害をもった身体が、こちらの身体をどう翻訳するのかについて考えなおすこと。日本にいたときには、なかなかそこまで深くは考えられなかったと思います。

豊平:ちょっと時間が前後しますが、2006年には、合気道もはじめられています。僕としては、合気道も砂連尾さんに影響を与えているように思いますけど。

砂連尾:そうそう。忘れてた(笑)。2006年のときに、新作を作って煮詰まって、新しいものをインプットしなければっていうときに、始めたのが合気道でした。それまでは自分は武道なんてしないって思っていたんだけど。道着着るなんて、想像もしてなかったです。最初に道場にいったときに話しかけられた言葉が心に残ってますね。大阪の道場での師匠が「人生40年も生きてきたら、いっぱい転ぶやろ。ここには転び方の練習しに来たら」っていったんです。それがそのときの僕にはめちゃくちゃヒットしてね。そうか、転び方を知らないから、行き詰るし、捌くことがわからず、ダメージ受けやすいかも、って気づいたわけです(笑)。だから、2006年は、身体的には合気道っていうアクセスをして、ダンス的には2007年に障害者とアクセスして、それで2008年にはベルリン行くから、2006年がほんとに転機でした。

豊平:今回のパフォーマンスで、砂連尾さんにとっての初めての試みはどのあたりでしょうか?

砂連尾:まずは、僕はパフォーマンスに子供を出すとか、伊達さんのような現代美術家の方に楽器演奏で出てもらうっていうのは、初めての試みなんです。高齢の認知症の方とパフォーマンスをやるっていうのも初めてです。ホームレスの方々の紙芝居の中のダンスシーンの振付をしたり、ワークショップを開催したりというのはありますけど、軽重の差あれど認知症の方と、っていうのは初めてです。今回はそういった意味では初めてづくしです。

豊平:子供を参加させたいっていうのは、砂連尾さんがかなり早い段階からおっしゃられていたことだと思いますが、どんなところが狙いなんですか?

砂連尾:それは単純に老人と子供の対話をこの土地で見たかったんです。老人の語ることや彼らの身体性を子供たちのなかに浸透させたときにどうなるんだろうっていう関心があったんです。ベルリンにいたときに、いろんな国の人と話しました。フィンランドのこの人はこういう考え方をするのか、ドイツ人の彼とは全然違うな、とか。そういった対話―身体全体を通して行う情報交換を通して感じていくこと―が、今の日本の社会では行われていないように感じたんです。特に、老人と子供の断絶みたいなものがあるんじゃないでしょうか。僕自身も老人や子供とそこまでの対話ってしていないって思ったときに、彼らが対話する身体性に触れてみたいって思ったんですね。それで老人と子供っていうテーマがひとつあったんです。どんな人を選ぶかっていうことに関しては、プロデューサーの森さんが推薦してくれた子供たちを選びました。ただ、今回参加してくれる子供の、変な思い入れや囚われもなく老人とアクセスしていく越境ぶりをみたときに、これはやはりおもしろいって思いましたね(笑)。


豊平:振り付けをつけるのではなく、今回のような参加してくれる方々との対話によって、パフォーマンスを作り上げていく手法の場合、たまたまとはいえ参加者の存在、たたずまいっていうのは大きいですね。今回、美術家の伊達伸明さんがウクレレ奏者として参加されますが、伊達さんは、今回のパフォーマンスにおいて、どういう位置づけなんですか?

砂連尾:まず伊達さんとお会いしたのは、舞鶴で、小山田徹さんが対談されていたときです。僕は対談は聴けなかったんですが、その前日の飲み会だけ参加したんです。そのとき、斜め前に座っていた伊達さんに、建物の廃材でウクレレを作る「建造物ウクレレ化保存計画」の話をお聞きしました。そのときの印象が、非常に良かった(笑)。消え去っていくものを、ヴァイオリンでもなく、ウクレレという、伊達さんの言葉を借りるならば、非常に「敷居の低い」楽器に変えることによって、誰もが手に取りやすいものにする。伊達さんのなくなったり消えていくものに対する愛着や、それをさりげなく触れるものに変えていくやり方が、物事に対する非常に良い距離感だと思ったんです。僕も今回グレイスヴィルの老人たちに接しているわけですが、関わる中で僕は老人たちに何かの痕跡を残すし、僕も老人たちが生きてきた何かを痕跡として刻んでいく。そういったときの関わり方の距離感、視点が、伊達さんと似ていると思うんです(笑)。その距離感が同じ伊達さんが、僕に寄り添うのではなく、その人そのものとしてパフォーマンスの現場に立っている。そのこと自体が重要な気がするんです。当然、僕は参加している人たちと直接関わっていくんだけど、伊達さんには、関わるか、関わらないかというぎりぎりのところに立っていてもらいたいんです。彼ならそれができるんじゃないかって、一方的に思っているわけなんです(笑)。

豊平:では、少し話を変えて、今回のパフォーマンスのテーマについてお聞きします。今回のコンセプトのひとつに、<コミュニケーションの不可能性>といったものがあると思うんです。日本語の日常会話ひとつ考えてみても、話し手の意図が聞き手に100パーセント伝わることなんて在り得ない。そこには伝わりきらなかった可能性が漂っている。今回のパフォーマンスは、老人、子供、ダンサーそれぞれの身体的な「とつとつとした対話」を折り重ねることで、一見成立しているようにみえるコミュニケーションの影に追いやられているディスコミュニケーションの存在へと観客の関心をつなげていく。僕は勝手にそう理解しているんです(笑)。そこには、砂連尾さんが、dance+でのエッセイ「ベルリンゆらゆら日記」に書かれていた「揺れる」っていうことも関わってくる気がします。

砂連尾:僕は自分が「揺れた」ときに一番一生懸命生きてたっていう実感があるんです。自分が揺れ続けるなかでの一生懸命さで相手に対したときにはじめて相手のこともわかる。僕は本当はこの人のことなんかわからないんじゃないか、相手のことなんかわからないっていう気持ちからスタートして、それでも一生懸命相手にわかってもらおうとする。そのときにはじめて相手のことがわかるんだと僕は思います。そういったことを、ベルリンでの体験や、今回認知症の人々に対するなかで、以前より実感できている気がしますし、それを参加者に投げかけてみたいですね。

豊平:わかってもらえないことを前提にすると、一生懸命相手にアクセスするしかないですからね。甘えが許されなくなる。

砂連尾:コミュニケーションが成立するようにみえたとき、実は大量のディスコミュニケーションが消えている。そこに目を向けることからはじめたいんです。それがあってはじめて相手を理解できるところに立てるんだと思うんです。でも、それに目を向けることはとても不安なことだと思います。相手を理解できていないかもしれない、自分が相手に理解されていないかもしれないっていうことを認めることなるわけだから、自分の存在、自己イメージを「揺らす」ことになってしまう。

豊平:コミュニケーションのことを考えると、結局、アイデンティティの問題ともつながっていきますね。近代社会の基礎に据えられてきた確固とした「自己」「個」というあり方が、実はとても不確かであり、「揺れて」いる。そこに目を向けるところから、新たな対話を考えたいっていうことですね。おもしろいですね。最後になりますが、今後どんな活動への展開を考えていますか。

砂連尾:ダンスってやはり頭で考えることではなくて、身体で考えることだなって思います。今、日本の中でコンテンポラリーダンスをあえてやっていくために、フィールドワーク的に、自らの身体を、問題意識のなかに放り込まむしかないと思うんです。少なくとも僕にとってのダンスはそうでしかありえないんですね。最近のワークショップでは相手を「揺らす」ってことをしています。ワークショップっていうけれど、僕は「何も教えません」っていったりします(笑)。そこでお互いが不安定になって、「揺れた」ときに初めて、みんなわかりあおうとする、興味を持ち合おうとする。そういうところに立っていきたいと思っています。それと今後考えていることとして、地域のいろんな職業の人のところにアクセスしていって、そこで「あなたはこんな運動をしているんです」っていうことを改めて提示してみたいと思っているんです。そこで起きることは僕にとっても、相手にとってもまったく予想もしなかったところからくる対話だと思うんです。それは双方にとって新たな視点を生み出すんじゃないでしょうか。

豊平:「揺れる」っていう言葉は、ほんとうに興味深いですね。人はわかりあえないかもしれない。だとしても、人はわかりあおうとせざるを得ない。そのときに、自分と他人の境が不確かになるまで、「揺れあう」っていうのは、新たなコミュニケーションの可能性かもしれません。3月7日のパフォーマンスが本当に楽しみになってきました。今日はありがとうございました。

砂連尾理 ダンスワークショップ発表公演 とつとつダンス


アーティスト・プロフィール
砂連尾 理(じゃれお・おさむ)
振付家・ダンサー。
大学入学と同時にダンスを始める。'91年より寺田みさことダンスユニットを結成。また、近年はソロ活動を展開し、舞台作品だけでなく障がいを持つ人やホームレス、子ども達とのワークショップも手がけ、ダンスと社会の関わり、その可能性を模索している。
2002年7月「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2002」にて、「次代を担う振付家賞」「オーディエンス賞」W受賞。2004年度京都市芸術文化特別奨励者。
2008年10月より、文化庁・新進芸術家海外留学制度の研修員としてドイツ・ベルリンに滞在中。この間、障がい者カンパニーであるTheater Thikwaの作品制作に振付家として参加する。

砂連尾 理